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新生のらくろ君Aの館

新生のらくろ君Aの館

造船時代その8


造船所時代の日記(8)です

造船の先行きにかげりが見え始めたころ、私は、千葉から来たTY君と共に、四国の工業技術院へ行った。イエロー‐ケーキと呼ばれるウラン鉱石の粗精錬で、大部分の不純物を除いた酸化ウラン70~80%含有の黄色い粉末の関係の仕事を持ち込めないかとの意図だった。精製酸化ウランの原料のウラン酸ナトリウムまたはウラン酸アンモニウムは貴重な資源として、当時から研究されていた。造船屋には、全くの関係がないかの様だが、掘削、採集のためのリグ絡みである、何とかしたい気持ちで一杯だった。
S1356建造方針会議と本社からの引き継ぎ、ホーバークラフトの接合工事(ジャンボイング)、漁業取締船の確認運転等々、雑多な仕事が振ってきた。
私は、ヤードのプラクティス、最近の船舶の損傷状況等を話し合うため、本社に出張した。辻堂の兄の家に泊めて貰った。

帰って、漁業取締船の予行運転と、公試運転に乗船した。小さい船なので、日比沖での運転だったが、矢張り大きく揺れた。私が手掛けてきた船の中では、最も小さい船だった。息苦しかった。

*****

事故のあった、吉田号は、入念な、やり直しの結果、引き渡された。私を、部長にさせなかった、遠因のクレーン船は、何事も無かったかの如く、艤装岸壁を離れていった。それを待っていたかの如く、GOo室長は本社に転勤となった。室内の課長達と、池田屋で寂しく歓送会を行った。

私は大いなる後ろ盾を失って、窮地に立った。その中にもS1336と同型(姉妹)船のS1337も海上公試を終え難なく引き渡された。2番船はとかく問題がない。S1353の進水、各人に対する昇格の通知。S1334の進水。目先が変わる。しかし進水時期には、我々設計の仕事は殆ど終わっており、特段に問題となることはない。

玉野研究所の研究発表会があった。よもや其処に私が関係するとはその時は露ほども考えていなかった。
私には分からない難しい研究をしていることだけは分かった。しかし商売のシーズになりそうなものは、余り見あたらなかった。結局研究のための研究の様な気がした。その中でも地中埋設物のディテクターは、その後若干の売り上げに貢献した様だ。その中には、他社と同じ発想の燃料電池や氷蓄熱といったものも含まれていた。
神戸商船大学練習船の引き継ぎが行われた。又日本海事協会の支部長が、来部され、NKの現状などについて話があった。

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O君は、インドネシアへの技術協力でPALへと出かけていった。E君の2代目である。
又2名の出向者を内示した。云われる方も、段々四囲の事情を知り、観念している様だ。土曜日、他の先任課長と3人で、これらの問題についての打ち合わせと意思の疎通を図った。
その晩は、腐った豆腐を食べてしまい、土日とも苦しんだ。外は雨で、塞ぐ気持ちをなお一層しおれさせた。
夏季実習生が来た。徳島県の漁業取締船の契約が出来た。関西構造地区部会が大阪堂島(阪大工業会館)であった。色々ある中、TIk氏の復帰が決まった。良くリハビリに耐えたものだ。これからも頑張ってやるといいながら、不自由な右手を使い、図面を描いていた。
S1337は引き渡され、いよいよ少なくなった仕事に、大御所RT氏と、TO氏が、去っていった。
転勤を言い渡されていた、N君が、これも家の都合で、会社を辞めた。このあたりは、兼業農家が多く、人手が無くなるのは、死活問題となる。そんなことで、悩んだ末の決断だったようだ。

久し振りに仲間とゴルフの練習に行ったが、心は晴れなかった。
大阪商船三井船舶の計画中である客船を受注すべく客船見直し会議が開かれた。設計時数、現場工数、工程などについて突っ込んだ検討が行われ、見積もりを本社でまとめ直すことになった。

夏休みに入り、先任課長らと4人で岡山の奥、グレート岡山CCへゴルフに出かけた。成績は何時も通り余り芳しくはなかった。

翌日私は、豊島へ仲間3人とテントを持ち、海水浴兼潮干狩りに出かけた。アサリを持ち帰っても誰も料理をする者がいない、私は、収穫したアサリ全てを、仲間にあげた。ぐったりした土曜日になった。
これまで、千葉転勤者は14名に達していた。日曜日、意味もなく出社した。自分は一体何をやっているのだろう、人に嫌われることばかりをやっている。いや、やらされている。そんな思いで一杯だった。

AI(人工知能)の研究が発足したとの話で、聴講した。エキスパートシステムは、一見素晴らしそうに見えたが、未だ時期尚早の感があった。LISPやProlog等のソフトが出ていたが、簡単な認識しか出来ず、実用までは未だしの感があった。

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翌8日から夏休み、VZ750での一人ツーリングを計画した、といっても急に思いついた。Ima氏はYamahaのバイク500ccを買ったばかりだったので、声を掛けなかった。というより何故か一人になりたかった。午前中は出勤し、午後のスタートとなった。
KHaはコマツに転職し小松にいた。翌日、名神から米原JCTを北上し、加賀ICで左に降りれば東尋坊だ。自殺の名所、飛び込んだら死体が上がらない所と聞いていた。いっそVZ750と心中しようかと頭をよぎった。しかし思い直してそのまま北上、あたりは、北国の風情が漂っていた。大阪から僅か200km足らずで、こんなにも空気が変わることに驚きながら、VZ750に跨って、ハーフヘルメットのゴーグルの隙間から冷たい空気を胸一杯に吸った。
ここは越前の国、内裏の京都を越えて遙かな国なのだ。
越前、越中、越後と、越の国は、新潟の北部まで続く。

小松空港近くの片山津ICで高速を降り、指示されていた通りの道を辿り、KHa宅に着いた。大阪から220kmの旅程だ。案外近く、お昼には着いてしまった。
小松市は、周りに、片山津温泉、山代温泉、粟津温泉など多数の湯が噴出している観光の街と基地の街だ。KHaと奥さんの関係は、高校時代のバスケットボールの先輩、後輩に当たり、それが縁で二人は結婚していた。綺麗な且つ心の優しい人だ。勿論私もよく知っていて、時には先輩面してしごいたこともあったのを思い出した。取り敢えず、KHaと、奥さんに挨拶を済ませると、その足で、金沢に向かった。一人兼六園をさまよい、日本三大名園の最後の一つに来たなと思った。既に、岡山後楽園へは地元で何回となく行っていたし、水戸の偕楽園にも行ったことがあった。

夏の兼六園は、冬のそれと違って、風情が、今一歩という所だった。金沢城趾をキャンパスとする、金沢大学も散策して、頃合いを見計らって、小松に帰りKHa宅に泊めて貰った。奥さんと3人での話しは、矢張りバスケットボールのことだった。「○○さんは随分もてて、私たちのつけいる隙がなかったわ」と暗にYYのことを話題にし、私が、YY以外には目もくれていなかったことを既に知っていた。その晩は遅くまで、飲み且つ話した。

翌朝早く、KHaの家を出発した私は、小松ICから入って、砺波ICで降り、チューリップの綺麗な砺波の公園にしばし時を忘れた。高岡市から氷見市を通りR160を北上、富山湾に囲まれてもなお波の荒い日本海を右手に見て、七尾市から田鶴浜町に着いた。
KHaの奥さんの知り合いである、田鶴浜の旅館に投宿し、歓待を受けた。「岡山から!随分遠い所をおいでなさった」と女主人は、少し驚いた様だった。「なに、高速道路があるから大したことはないですよ」と私は言った。事実、500kmの行程は、私にはさほど苦痛ではなくなっていた。
田鶴浜を基地にした。3日目は、穴水まで出かけた。穴水までは、R249をほんの一走り、七尾西湾、北湾を右に見て走る。海沿いの道はとても気分がいい。穴水町迄は30km足らずだ。穴水には景勝の地、由比が丘があり、此処に来迎寺がある。814年に嵯峨天皇の勅願で創建された真言宗の寺で、花弁が500枚で毎年30枚ずつ増えるという不思議な菊桜(県天然記念物)で有名な所だ。平安時代の宝物や室町時代の庭園も見て回った。
由比が丘を散策し、田鶴浜にとって返した。田鶴浜から南に少し下り、七尾市に行く途中左手に能登島が見える。入り口には、歓迎和倉温泉と書かれた看板が目立つ。有料の能登島大橋は上下に起伏のある一寸変わった橋だった。今は北部に斜張橋も出来ているという。能登島大橋を渡り、能登島をぐるっと一回りした。途中の「のとじま水族館」は、取り立てて大きなものでなく、よそでも見られるイルカショーなどをやっていた。
夕日も西に傾きかけた頃、田鶴浜に帰投した。その日は、少量の酒に呑まれ、ぐっすりと寝た。4日目の朝、食事を済ませて、8:10田鶴浜を再び出発、昨日と同じ能登半島の南側を走り関の浜から、宇出津を通り、恋路海岸を経て珠洲市迄足を運んだ。ここらでは、輪島市に次ぐ大きな街だ。珠洲ビーチホテルにて休憩、露天風呂に入った。その日は、田鶴浜に帰り、泊まった。

5日目は、一気に北上、輪島に着いた。有名な朝市は既に終わっていた。輪島川を渡り東へ走った。途中曽々木海岸で、一人、海水浴を楽しんだ。如何せん日本海は、夏と雖も荒い。しかし汗を流して気持ちよかったが、後で身体がべと付くのには往生した。そのまま走り、道は狭くなったが、禄剛崎迄足を延ばした。ひぐらしが鳴く奥能登のゆきどまりとして知られる狼煙町のずんぐりとしたしかし小綺麗な禄剛崎の灯台から、海岸に打ち寄せられる波を見ながら、この感慨を分かち合える人が居たら、そしてそれがYYだったらもっと楽しいだろうにと、一人感慨に耽った。
それからは、昨日の珠洲市を通り、一直線に能登半島の外周を全て回って能登有料道路を通り羽咋市の千里浜に遊んだ。内灘町からごみごみした道を走って、北陸自動車道路にたどり着き、小松ICから再びKHaの家にお世話になった。強行軍だった。
6日目の朝は、7時前に起き、朝食をご馳走になり、7:40に別れを告げ、KHa宅を後にした。北陸自動車道路を、加賀ICで下りて、ローカル道路を、東尋坊に向かった。再びVZ750毎飛び込みたい心境ではあったが、矢張り怖かった。そのまま越前海岸国定公園を右に見て、VZ750は越前岬を過ぎ、有料道路から、敦賀ICに入り、京都で下り、国際会議場へ足を運び休憩した。

YYとは、何度も来たことのある場所だ、此処は京都だ、その思いで、比叡山の山並みを遠く目で追った。豊中の姉の家に着いたのは夕方6時頃だった。未だ陽はあった。

7日目の朝も7:30には姉の家を出て、TNaの住む能勢町に向かった。奥さんも歓迎してくれ、私が一人(独身)で居るのを気遣った。私に何くれと無く気を遣って、女性を紹介してくれた、中島牧師も近所から駆けつけてくれた。
昼飯をご馳走になり、そのまま彼の住処を辞去した。疲れがたまっていたのか、古市近くで、言いしれぬ眠気に襲われ、VZ750を路端に止め、しばし仮眠を取った。玉原の自宅に帰ったのは、夕方6時45分。7日間のツーリングも終わった。
合計走行距離1833kmであった。ガソリン85リットル、21.7km/リットル。日数の割に距離は短かったが、能登を征服した気分であった。息子が来て、夕食を共にした。

翌朝は洗濯をし、息子とはボーリングをしたり、渋川から鷲羽山に行き遊んだ。
休み明け、鳥取の漁業取締船の見学に行った。相変わらず人事の話。

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週末、初めて、東大本郷での船体構造委員会関東地区部会に出席した。関東は、本社の管轄、滅多に行く機会がない。

タンカーを改造し船首部で一転係留し、油を貯蔵するTurret MooringのSOFECが入ってきた。これも海洋構造物の一つだ。アルミの漁業取締船ばかりやっていた私には、一服の清涼剤であった。
週末は、2パーティーで、グレート岡山にゴルフに出かけた。その中には、後に、私を部長にさせなかった、人物2人が含まれていた。100を切ることは到底出来なかった。

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SOFECの船主Mr.Turner、Mr.JhonsonとMr.Abuhamadが来日し執務に就いた。Progressive会議などが行われた。最早唯一の技術の交渉だ。私はそれを喜んだ。
SOFECの連中と、鳴滝で、会食した。玉野市の奥まった静かな所にある、料亭といっても良い所だった。

週末、娘が来て泊まった。日曜日は、娘をバイクに乗せて、紀伊国屋まで、飛ばした。倉敷に回り、スカートと、コートを買った。娘は無邪気に喜んだ。

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土曜日、甥の結婚式があった。私は9人姉妹の末弟故、第二姉の子供とは僅かしか歳が離れていない。昔から、姉は、「○○を見習いなさい、勉強をちゃんとするのですよ」と言っていたものだ。私はそんな、息子達に「絶対おじさんとは言うな。お兄さんといわなければ、話しをしてやらないぞ」と言ってきた。
2番目の息子が、サンシャインプリンスホテルで挙式する。東京まで出かけ、臨席した。独身の私は多少気が引け、心なしか小さくなっていた。土曜日は東京に泊まり、姉と姉の連れ合いと、陽気に飲んだ。

S1353の海上公試が行われた。その日は娘の14歳の誕生日だった。娘は、その土曜日、私の家にやってきた。その晩は泊まり、日曜日に、天満屋で、誕生祝いのバッグを買った。随分大きくなっていた。

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仕事は相変わらず、魅力に欠けるものの連続だった。S1353の引き渡し、SOFEC船主との打ち合わせ。
ボスのMr.Turnerは「Mr.○○はゴルフをするのか?」と聞かれ、「まぁすこし」と応えたら、Mr.Turnerは机の引き出しからタイトリストのゴルフボール3個詰めを2個私に渡し、「これで良い成績を出してくれ」と言った。気の良い親父だった。

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カローラは、段々だだをこね出し、騙し騙し乗らなければならなかった。車を修理に出し週末は久し振りに家でごろごろして過ごした。

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土曜日にカローラは帰ってきた。VZ750もドックから同時に帰ってきた。一人、VZ750を児島方面に転がしていた。
TNaから電話「よぉ元気にしてまっか」、元気な訳がないのを知っての慰問の電話だ。「まぁ、何とかな」と応えるのが精一杯だ。時々気を遣って電話をくれる。親友とは有り難いと思った。
その週は、バスケットボールカーニバルや、運動会があった。
出向していた、二名が復職した。慰労会を行い、2次会で、不覚にも酔いつぶれ、家に着いたら、タクシーであった。

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日曜日は息子の誕生日だった。二人で、CDと、ジーンズを買いに出かけた。

土曜日に設計部長杯のゴルフコンペが、玉野ゴルフクラブで催され、予想通り19位に終わった。どうもバスケットボールならいざ知らず、小さいボールには向いていない。パチンコも行かないし、と変なところで納得した。

Yamaha 500を買ったIma氏から電話があった。「大分慣れたので、明日「くろねこ」と帝釈峡へツーリングに行くので付き合って欲しい」とのこと。二つ返事でOKした。
明日を考え早めにベッドに入った。

朝の集合8:00に灘崎の「くろねこ」のたまり場に出かけた。女性を含む十数人が集まっていた。Ima氏も来ていた。一斉に軍団は帝釈峡へと向かった。吉備路を通り、高梁から西に向かい、途中狭い道だが岡山と広島の県境を越えて、目指す帝釈峡に着いた。女性ライダーが途中で、はぐれるというハプニングがあったが、目的地には全員元気な顔があった。
帝釈峡は、日本5大名峡の一つで、国定公園であり、比婆郡東城町、神石郡神石町そして神石郡油木町にまたがり南北約20Kmにわたる大峡谷である。この地方に発達しているカルスト台地が帝釈川によって侵食されてできた峡谷で、世界三大峡の一つとしても知られる。日本一の天然橋といわれる雄橋は、永年の渓水侵食によって作られた長さ90m、幅18m、厚さ24m、高さ40mの雄大なものだった。地質学上も世界に誇りうるものらしく、北米のロックブリッジ、スイスのプレヒシュと並び世界の三大奇橋の一つに数えられているそうである。 2kmほど下流の国の天然記念物である雌橋まで歩いた。白雲洞に代表される鍾乳洞、急流の断魚渓、岩柱、滝などの奇勝奇岩が目を和ませてくれる。大正13年、帝釈川をせきとめて造った神竜湖の水面には紅葉の色が鮮やかに映じ、断崖絶壁からは、船遊びの様子が一幅の絵を思わせる。上帝釈、永明寺から神竜湖乗船場までの約4kmはハイキングコースになっており、岩山に生えている原生林が見事に紅葉し、あたり一面が紅に染まっていた。秋の遊歩道は、紅のトンネルとなっていた。
最近8,000~10,000年前の遺跡は発掘されたそうである。
ひととき、自然を満喫し、バイク軍団は一路帰途についた。バイクに乗っている間は一切余分な事は考えない。ただひたすら風を切るのみである。
その夜は久し振りにワインを飲んで寝た。

週末には、VZ750でIma氏と六甲山に出かけた。六甲は、私が小さい時に何回か行った山だ。それでも冬山登山の練習時には、六甲でさえ遭難者がでるという。我々は、普通の道路を、山頂まで上がり、山頂を縦走して、牧場などを回った。Ima氏は、とても慎重な運転をする人であった。ヨーロピアンスタイルに似た、クラシックなバイクだった。
私は既に43歳になっていた。誰も気が付かない、ひとりぼっちの誕生日は矢張り寂しい。週明けは休みを取り、終日一人で寂しく酒を食らった。「生き甲斐とは何か」を考えながら。
それからの2週間は、ひとりぼっちが身にしみた。「ええい、侭よ」とばかり半分自棄になって過ごした。そんな時はVZ750だけが救いだった。
土曜日、設計部長達と2パーティを組み玉野ゴルフクラブでラウンド。面白くも何ともなかった。

師走に入った矢先、我々は例年通り忘年会を持った。忘れもしない、又一別館での旧部長を交えての忘年会だった。あの、吉田号事件で、非人間的な発言をした男だ。
宴もたけなわになった頃、座が動き、その男が、私の前に現れ、ビール瓶を構え「色々あったが、吉田号では苦労したな」と普通の挨拶のつもりのようだった。
私はさほど酔ってはいなかったが、「吉田号」の名前が、私の潜在嫌悪感に火を付けた。SMa君が辞めて行かざるを得なかったこと、徹夜の明け暮れ、帰れと言っておきながら、翌日昨日の結果はどうだとの督促、堪えていた憤りが一気に吹き出した。
私は、
「貴方の様な、非人間的な人の下では働きたくない!」
と激しい口調で言った。傍にいた、3年先輩に当たる男K.Kが駆け寄って、「○○君、部長の前だ、止めなさい」と慌てた風だった。
私は「部長の前だからこそ言うのです。これが、他でこそこそ言うと、卑怯になります」私はその事がどう進展するかは薄々分かっていた。元部長は、殆ど声を失って、次の席へと移っていった。
私は本当にそう思っていた。止めに入ったK.Kも同じ孔のむじなであることは後で分かった。
サラリーマンの生き方としては、許される言動ではなかった。しかし、深い怨念にも似た気持ちが私をそう言わざるを得ない心境にさせていた。

「SMa君も可愛そうだったし。それに誰の責任という訳じゃないんだ。その為に組織として我々は動いているんだから」そして「たまたまあの時グループの責任者になったばかりだったけど、一旦なったら、責任はその長が取るべきなんだ」・・・

難しい話しはどうでも良かった。私のサラリーマン人生、いや、人間としての人生も終わりかと感じた。

師走も迫った頃SOFEC(1点係留油備蓄船)のさよならパーティが鳴滝であった。営業と、実質的プロマネである私と、数人の関係者だけのささやかなものだった。ゴルフボールを私にくれた、Mr.Jhonson,Mr.Turnerがいた。そんな会には珍しく2次会で、築港へと流れた。もう来る機会もないであろう日本の田舎を見ようと、ノルウェー人船主2人は、田舎の夜を楽しんだ様だ。翌日夜SOFECは艤装岸壁を離れて、由良のドックへ向かった。

週末はIma氏と閑谷学校へ、ツーリングした。
此処は、岡山藩主池田光政が寛文6年(1666)に庶民教育のために創設した学校であり、今の私立校で、誰でも入校することが出来た様だ。765mもの石塀に囲まれ、備前焼の屋根瓦を使用している講堂・聖廟等は300年余りたった今も堂々たる姿を見せている。重みがある。秋の楷や紅葉には既に遅かった。思い出深い隣接した閑谷神社や茶室黄葉亭にも回った。

年末に息子と、娘がやってきて一緒に大阪へ行き、しばし遊んでとんぼ返りした。

造船時代その9に続きます。




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